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教室の沿革

東北大学皮膚科教室の歴史は、1907年(明治40年、丁未の年)に遡り、1907年10月に東京帝国大学より遠山郁三先生が仙台医学専門学校(仙台医専、後の東北帝国大学医科大学)に教授として赴任し、皮膚科学教室の開設と県立宮城病院での皮膚科診療が開始されました。皮膚科同門会である丁未会は2013年で106年を数える日本の皮膚科の中で草分け的存在です。


仙台医専は1912年(明治45年)に東北帝国大学医学専門部に改組され、1913年には東北帝国大学医学専門部附属医院が設置と県立宮城病院の移管がなされた後に、1917年(大正6年)9月に東北帝国大学医科大学として皮膚病学・梅毒学講座が開設されました。遠山郁三先生は1919(大正8)年5月から1926年(大正15年)9月までを初代教授として東北帝国大学皮膚科教室を主宰され、遠山氏連圏状粃糠疹や遺伝性対側性色素異常症などの報告をなされました。


遠山郁三先生が東京帝国大学医科大学教授として転出されたのち、1926年(大正15年)10月から1937年(昭和12年)までは眼上顎褐青色母斑(いわゆる太田母斑)の病名を残された太田正雄先生が第2代教授務められました。太田正雄先生は、木下杢太郎というペンネームをもつ当代一流の作家・詩人でもありました。


第3代教授の伊藤実先生は、1937年(昭和12年)から定年退官される1957年(昭和32年)3月までの教室を主宰され、伊藤母斑(肩峰三角筋部褐青色母斑)、脱色素性色素失調症、lentigo acromiantなどを報告しています。伊藤教授の時代は戦時で有り、院長として奔走しつつ、広く東北地方に医局員派遣が行われていました。


第4代教授高橋吉定先生は医真菌学の権威であり、1957年(昭和32年)4月から1969年(昭和44年)3月の在任中は、東北大学皮膚科の歴史の中で、真菌研究が最も盛んな時期でありました。


1969年(昭和44年)10月から1982年(昭和57年)9月には、第5代教授にmelanosomeの発見者であり、acral lentiginous melanomaの概念を提唱された清寺眞先生をお迎えしました。この期間は清寺教授の専門とされた色素細胞研究が教室内外を問わずに展開され、国際色素学会の主催など国際会議も仙台で行われました。新研究棟の完成、電子顕微鏡の導入、生化学室や組織培養室の設置など、現在の研究室の体制がほぼ形作られたのもこの時期です。


前任の第6代教授田上八朗教授は、皮膚bioengineering , 乾癬の炎症機構解析のパイオニアであり、昭和58年6月から平成15年3月の東北大学皮膚科を主催されました。田上教授の在任中に、角層機能解析が飛躍的に進歩し、皮膚科の外来には恒温恒湿測定室が設置されました。その業績を称えられて、2010年に国際皮膚科連合(Internatinal League of Dermatology)から表彰されました。



このように東北大学皮膚科は、蒼々たる先生方を教授にお迎えしてきた歴史のある教室です。 これらの歴史の上に新たな足跡を積み重ねて行くべく、医局員一同研鑽しています。

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